第4章 2話
どん底

1988年頃より翳りの見え始めていた経済の落ち込みは、1990年代に入り、確実にマイナス成長に変じて行った。
世に言う「バブル崩壊」である。

この時期、ポルシェ社の新しい総支配人、ルーディ・ノッペンは大変な窮地に立たされていた。

ノッペンが引き受けたポルシェ社は、既に959の開発と、過剰なアメリカ市場への参入による多大な借金 (共に、シュッツの作った『負』の遺産であった)を、バブル崩壊時には抱えており、この負債を帳消しにする事など、 どのような優れた経営者にも不可能だと思われた。
しかもそこに来て、かのバブルの崩壊である。
それまで飛ぶように売れていた多くのスポーツカーや、良き時代のヴィンテージ・カーは、 それを投機目的で購入した人間を真っ青にさせるような値下がりと、売行きの落ち込みを目の当たりにしたのだった。

当然の事のように新車の登録台数も、目に見えて下がってきた。

発表当初、あれほど人気の高かった964カレラ4とカレラ2は、ウナギ登りにパワーの上がって行く日本車よりも非力だ、 と勝手に解釈され(あくまで「表示馬力」にすぎなかったのではあるが)瞬く間に勢いが衰えていった。
特に当時、時代はスポーツカーよりも、SUVやRVに目が行くようになり、街中を走る車の多くが、 ミニヴァンやクロスカントリー4WDに変化し出していた事もあり、964は苦しい立場に置かれる事になる。
また、ポルシェ社自身も苦しい財政難にあえぎ、964をベースにした新しいポルシェ・ターボの開発に廻す資金も乏しく、 まず、前モデルの930ボディーに採用していた3・3Lのターボエンジンを流用して「ポルシェ・ターボU」として中継ぎをさせる政策を取った。
この「ポルシェ・ターボU」は、厳密に言えば930ボディーの「ターボ」そのもののエンジンではなく、 その当時、特にステイタスのあった「911ターボ・フラットノーズ」や「911ターボS」 に搭載されていた330HPの強力なエンジンを320HPにディチューンした物を搭載した『魅力的な』マシンだったのだが、 時代にそっぽを向かれたポルシェ社に、再び追い風を起こすのは不可能であった。
また、964ボディーには、これも往年の魅力的なモデル「カレラRS」も限定生産でラインナップされたが、 魅力的である事は誰もが認めたが、売り上げに直結する事は残念ながら無かった。
お金が無いから、開発に遅れる、開発が遅れるから製品はますます売れなくなる。
ポルシェは、最悪の悪循環に陥り始めていた。

その時期、ポルシェ968はデビューする事になった。

ポルシェ社にしてみれば、964の開発以降は正直な所、ニュー・モデルの開発に廻す資金が慢性的に不足していた、 が、968に関しては、前章で紹介した通り元々は、1990年頃には発表される予定だった事もあって、 開発とセッティングには充分な時間を掛ける事が出来た。
しかし、残念な事に時代が味方をしてはくれなかった。
968は本来の出来の良さとは裏腹に、944の後継車としてクリーンでモダンなスタイルを期待していた輩にとっては 「無理矢理顔付きを『ポルシェ風』にした」と思われ、また、911フリークにとってみれば「顔付きを変えたところで所詮はFR」と言われた。
968は発売当初より受難の道を歩まなければならなかった。

ポルシェ社にしてみれば964の落ち込みと、968の不人気は完全に命取りになりかけていた。
その上、1991年にパワーアップしたはずの928GTSでさえ、ほとんどウワサにならないほど顧客の気持ちはポルシェから離れていた。
年々、借金は増え、既に開発どころか、会社運営の資金までそこを付き始めていた。
ブランドと技術のコマーシャルのために、1989年よりCART参戦、1992年にはF−1の「フットワーク・ポルシェ」 チームをワークス扱いとして、全面的にバックアップして会社の威信を保とうとしたが、運の悪い時は重なる物で、 「レースに強い」ポルシェのはずが、ほとんど大した結果を残せなかった上に、 レース参戦と開発の為の借金がただ増えたと言う結果だけに終わってしまった。

ポルシェ社では様々な生き残り策を討議した。
メルツェデス・ベンツが「中型セダンの高性能版」の開発を依頼してきた時には、 開発どころか現車の生産まで引き受けるぐらいのサーヴィス(と言うよりも、必死で仕事をキープして、少しでも売り上げを出そうと言う悪あがきであろう)をした。
余談であるが、このポルシェ開発・初期ロット生産の中型高性能セダンこそが、現在ではマニア垂涎の的となっている、 Eモデルの最高峰「メルツェデス・ベンツ500E」である(後期型は「E500」と呼び方が変る)事は、諸兄には、 もうお気付きであろう。

しかし、いくら他ブランドの車が売れても、ポルシェ社自身の生産した車の売行きは、いつまでたっても「パッ」としなかった。
経営陣は、964の競争力の無さに見切りを付けて、新しい「911」の開発に着手すべきだ、と主張した。
新しい911は、外国のスポーツカーや、最近では下手なスポーツカー顔負けの性能を持つ「スポーツセダン」に対抗出来るよう、 水冷エンジンを積んではどうか?と言う提案がでて、なりふり構っていられない状況の中、水冷フラット6の開発に着手する事になる。

911が最初に発表されたのは、1963年、「ポルシェ901」としてであった。
時代は「911誕生30周年」に近づいていたのだが、ポルシェ社は、今だかつて経験した事の無い危機に直面し、 どん底の時代にあえいでいたのである。


←戻次→
↑上戀目次