第2章 2話
はるか離れた兄弟と

924は進化するに従い、次第に一般の人々からも受け入れられるようになっていた。
それは、あまりにも特殊な911と違い、普通の人が求めていたスポーツカーとしての要素を全て兼ね備えていたからであり、 普段のアシに使えるのと同時に、必要以上の動力性能を兼ね備えていた「新しい」スポーツカーの指針となるべき姿であったからに他ならない。
依然として911フリークからは冷たい目を向けられてはいたが、そんな事はお構いなしに、世界中で924は売れ始めた。

しかし1978年、ポルシェの関係者はカミナリに打たれたような衝撃を受ける。

それは西ドイツより遠く離れた国、日本に生まれたある車が原因だった。

東洋工業〈現マツダ〉サバンナRX−7。
日本ではSA22Cと呼ばれる最初のRX−7である。
924を真似たと言っても良いそっくりなスタイル、ほぼ同等の(と言うことは、当時の2リッタークラスではトップクラスの)動力性能、 そしてポルシェ関係者から見れば、破格とも言える低価格・・・
今までヨーロッパの名車と呼ばれるライバル達でさえ「負けない」と感じていた、が、この東洋の島国が放った車は、 924が築き始めた牙城を崩すかもしれない・・・
そんな予感を感じさせられる出来の良さだった。

この車の発表を知り、ポルシェ関係者達は怒り、旧NSU関係者達は狼狽した。
ポルシェ関係者から見れば、RX−7のスタイルは、明らかに924のコピーであり、フェイクにしか見えなかった。
確かに、細かいディテールの違いはあるものの、全体のシルエットは良く似ていて、924を始めとする「新世代」の車を感じさせた。
しかし旧NSU関係者にしてみれば、もっと複雑な心境だったと思われる。

サバンナRX−7のエンジンは、言うまでもなくヴァンケル・ロータリーエンジンである。
これは元々旧NSUが世界で最初に実用化に成功したエンジンで、 東洋工業はNSUよりライセンス生産としてこのロータリーエンジンを市場に送り出していたのだ。
かたや自分達の工場で生産された車、もう一方は自分達の技術から開発された車。
NSUからみれば、924とRX−7は自分達の作り出した『兄弟』と言っても良い関係だったのである。

しかしそのような複雑な心境になったのは旧NSU関係者だけではなかった。
次に記す興味深い話に目を通して欲しい。
「・・・当時アメリカでポピュラースポーツカーとして非常に売れとったのはポルシェ924だった。
この924というのは、経営がおかしくなってアウディの傘下に入ったNSUに、ポルシェが生産を委託していた車なんです。
昔の我々のライセンサーですよ。
ネッカーズフルムの工場で、レシプロエンジンを造ってる・・・今はロータリーを諦めて924を造っている。
僕は924は非常に名車だったと思う。
ただね、重量分布を考慮してトランスアスクルを採用したり、 エンジンを倒して重心を下げたりしていたから非常にコストが高かったんです・・・(後略)」
「当時RX−7を開発するに当たって、お手本としたのはポルシェ924、944でした。
これらの車は目標とするに相応しい出来だったのです・・・(後略)」
これはマツダ前々会長・前最高顧問の山本健一氏の回想録の一部と 同じくマツダの足回り設計からRX−7主査に抜擢された貴島孝雄氏の回想録の一部を抜粋した物である。
山本氏の意見は、先ほど述べた旧NSU関係者にも似た、924に対する愛情、 そう、まるで身内に対するようなねぎらいの気持ちが込められているように感じられてならない。
そして貴島氏の意見は皮肉なことに、当初酷評された924、本来なら時代を見据えた名車と言われてもおかしく無いこの車を 最初に評価したのはこの東洋工業の人達だったのだ、と言う確信に感じられる。
これをやはり「本物がわかる人間は本物」と思うのは私の楽観的な見方であろうか?

とにかく、RX−7は発売当初から世界でヒットした。
924もやはり好調に売れていた。スポーツカー消費国アメリカを中心として世界中、 2Lクラスのスポーツカー市場はこの2台がリードしたと言って良い。

924は、はるか離れた兄弟と、世界を股に掛けて戦う事になったのだ。


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