第1章 5話
924誕生

VW・アウディスポーツは、着々と完成されていった。

決して充分とは言えない開発期間で、この『魅力的な』小型スポーツカーは少しづつ、確実に完成に近づいていた。
シャシの基本は言うまでもなく、トランスアスクル方式を採用するFRスポーツである。
すでに生産中止が決まった914と、同等の運動性能を確保するには当然の選択だった。
また、これにより、騒音、振動、遮熱の問題もかなり楽になる。また、基本パーツはVW、アウディより調達する事が前提だったので、サスペンションは、 前にVWゴルフ用のストラットとVWシロッコ用のロアアームを使用したストラット方式、リアはタイプ1のトーションバーとセミトレーリングアームを使用したセミトレーリングアーム方式を採用した。
ヴァリアントで試験されている「ヴァイザッハ・アスクル」はコストの面で採用されなかったが、その必要も無かった。
軽量なVW・アウディスポーツは、それがなくても充分にヴァリアントより身軽な事は容易に想像がついた。

また、「積み木箱原理」は、多くの技術者が賛同し、VW・アウディスポーツに採用する事は決定されていたが、そのために思いも寄らない恩恵を受けることになる。

すでにこの頃には、VW・アウディスポーツに積まれるべきパワートレーンに、幾つか候補は上がっていたが、全て直列エンジンであった。それは当然、横に繋げてより大きなV型エンジンを作るという前提(私見だが、それならV4を2つ繋げても・・・と思うのは、私だけだろうか?)でチョイスされていたのだが、その時、より繋ぎやすくするために、最初から45度傾けた状態(生産型924は40度)にする、という当時ではかなり斬新な試みだった。開発技術陣はかなり四苦八苦したと想像されるが、これにより直列エンジンを前置きにする時に問題になるボンネット高を低く、また、空気抵抗の軽減に必要とされるボディー前面積を小さく取る事が出来る。重心もかなり下にくる事になるので、この車のコーナーリングの安定性の高さは一目でわかるようになった。

VW・アウディスポーツは、早い時期にほぼ完成されていたと言って良い。
ただ一つ、エンジンを除いては・・・

実は、フールマンはこの魅力的な小型スポーツカーに相応しいのは、アウディが当時開発していた新型5気筒エンジンしか無いと思っていた。
なんと、フェリー・ポルシェ自身もこの件には賛成していたのである。
逆に言えば、失礼な話かもしれないが、新しいVW・アウディスポーツには、その時VW社、アウディ社のラインアップしているエンジンでは全く役不足に見えたのである。
それほど素晴らしい出来だったとも言えるだろう。しかし残念ながら、当時はまだポルシェ社とアウディ社はそれほど親密な関係ではなかったし、なんといってもアウディ自身、ふところ具合が寂しく開発に充分な時間とカネをかける事が出来なかった。

開発の締切りは刻々と近づいてくる、仕方なく、技術陣は次点案でVW・アウディスポーツを完成させる事になる。

それは、今までテストしたエンジンのなかで最も成績の良かったアウディ100系のエンジンを使用する事だった。
ただし、そのままでは様々な点で不満が残る為、考えられないほどの手直しを行った。
まず、回転上がりをスムーズにする為にOHVヘッドをOHCに変更し、フラットなトルク(ポルシェ社は、実は馬力よりも常にフラットトルクのエンジンを作るよう心掛けてきた)を得やすいようボアアップして、 1984ccに排気量をアップした。クランクシャフトもストロークこそ同じだが互換性の無い物で、バルブ・クリアランスを取る為にカムカバーとシリンダーヘッドも変更された。
つまり、アウディ製とはいってもそのじつ、ポルシェオリジナルと言っても差し支えないほどのエンジンになっていたのである。

VW・アウディスポーツは完成した。
それは同じドイツの競合車となるフォード・カプリやオペル・マンタよりも魅力的で、外国の競合車であるトライアンフTR7やアルファロメオ・アルフェッタGTよりも出来が良く、 またロータス・エスプリよりも万人に好まれるだろう車に仕上がった。

しかし、ここで思わぬ事態が起きた。

1974年、ルドルフ・ライニングに変わりVW社社長となったトニー・シュミッカーは、現在のVWの経済状況で、ニーズの薄いスポーツカーを販売する訳にはいかない、との通達をポルシェ社にしてきたのである。
また、アウディ社にこの新しく開発したスポーツカーを引き取ってもらうにも、アウディはVW以上に青色吐息で、いつ潰れてもおかしくないような状態だった。
すでに開発されたこの小型スポーツカーを、廃止するかどうかを決断しなければならなくなり、ほとんどの重役が廃止を持ち出そうとした時、二人の男が真っ先に反対した。
その二人とは誰であろう、社長であるフールマンと、前社長のフェリー・ポルシェである。

フールマンは社長としての立場と、類稀なる天才技術者としての意見で、VW・アウディスポーツには開発にコストが掛かり過ぎている事により、 今廃止する事は大きな損害をポルシェ社が受けると言う事、また、VW・アウディスポーツは、928(この頃にはすでに「ヴァリアント」から928と言う呼び名に変っていた)と共に、 今評価されなくても、未来を見据えて開発されたのだから、将来的に必ず評価される車である事を説いた。

また、フェリー・ポルシェはもっと情緒的な、しかしある面ではフールマン以上に将来を見据えた意見を出した。

それは、元々ポルシェは「VWゴルフ」となるべき車を開発し、そして911を廃止しVWタイプ1とポルシェ356の関係のような原点に戻った車を製作すべきであった事、 実はフェリー自身、新しい経営陣にそれを望んでいた事、そして、残念ながらゴルフは我々が開発出来なかったが、それに順じたスポーツカーをポルシェが生産する事は、今後必ずプラスになるだろうと言う事であった。

当然の事ながら、この二人にこう言われて反論出来る者など当時のポルシェ社に(いや、多分それ以降今までと、それから今以降の未来を全て含めた、ポルシェ社が続く限りの間、と言い切っても良い!)誰一人いるはずがなかった。
そして小型スポーツは、ポルシェの名前で販売される事になった。

今回の件で、ポルシェ社に借りの出来たVW社のシュミッカーとアウディ社は、出来る限りの援助をする事をフールマンに約束した。
フールマンは、開発にかかったコストを出来るだけ償却出来るよう、VW社より新型スポーツカーの共用部品を格安で納入させ、また、生産能力の乏しいポルシェ社のために、 この新型スポーツカーの生産をポルシェ社に代わり安心してまかせられる技術のある工場を紹介してもらい、自分たちの工場のように使えるよう希望した。
そしてVW、アウディ側より、ネッカーズウルムの、旧NSU工場で生産できるよう取り計らってもらった。
これはアウディにとっても朗報で、工場を遊ばせる事無く生産効率を上げられると言う事で、むしろアウディ社は、またポルシェ社に借りを作った事になってしまった。

こうして、ポルシェ社の新しい時代のスポーツカー『924』が誕生したのである。


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