第1章 3話
悪夢

それは突然訪れた。

自動車メーカーとして、最大のマーケット国であるアメリカ・・・VW、ポルシェにしてもそれは例外で無かったはずだ。

・・・1970年、アメリカでマスキー法が可決。
多くの自動車メーカーが「不可能だ!!」と声をそろえて叫んだ。
しかし、そんな事ではどうにもならない事はわかりきっていた。
また、FMVSS(連邦自動車安全規制)が、衝突安全規制に乗り出したのもこの頃(有名な、『5マイルバンパー装着義務』は、74年より実施)であった。
排気ガス規制に衝突安全規制、どちらをとってもVW、ポルシェにとって命取りになる物である。
特にVW社は、メイン商品のタイプ1が老朽化してきた事により、目に見えて売上が下がってきた。
そこでVW役員達は、攻撃型のロッソに変えて、1971年、ルドルフ・ライニングをその後釜にすえた。

ライニングは野心家というよりも、むしろ冷徹なビジネスマンであった。
彼はまず、利益の成長がスローな「アウディ・NSU・アウトウニオン社(この頃には、アウトウニオン社の正式名称はこう変っていた)」を完全独立採算制とし、VWより資金の持ち出しを食い止めた。
また、タイプ1の後継車の開発をポルシェ社から取り上げ、自社開発とするよう命令し、しかも異例の早さで開発するよう念を押した上、間に合わない事がわかるとボディー・デザインのみ社外に委託する事を渋々同意した。
余談であるが、その時既に発表されていた「パサート」を元に、デザインをG・ジウジアーロがデザインした車こそ初代ゴルフである。

VW社は1970〜1974年の間に辛くも持ち堪え、経営内容を立て直したと言われている。
色々と悪評の多いライニングではあるが、こと経営手腕に関してはノルトホフやロッソよりも上だったようだ。
また、彼が冷酷なだけの人間で無い事は、後に記す事になると思う。

しかしポルシェ社にとっては全くの悪夢でしかなかった。
彼等自身マスキー法と衝突安全規制に頭をかかえていたのに、最大のビジネスである「タイプ1後継車」プロジェクトまで取り上げられてしまったのだから・・・それでも彼等には、嘆いたり悲しんでいたりする暇は無かった。
まずは現行の911と914の『悪夢対策』に力を注いだ。

911も914も、標準のバンパーの上にごつい「オーバーライダー」を取りつけた。また、きたる74年の「5マイルバンパー装着義務」に関しては、それに間に合うよう様々な形状のバンパーの試作を始めた。
また、「マスキー法」対策としては、エンジン排気量を上げ、排気ガス対策を図る事により現在の性能を維持しよう、という方針が決定(当時はほぼ、総てのメーカーがこの方針で考えていたと思われる)し、 当の70年に2Lから2,2Lにアップさせたエンジンを、2年後には2,4L、5年後には2,8L(生産型は2,7Lに収まった)にスープアップする事を前提とした。
また、来るべき1975年以降に、現在のハイ・チューニングに変る「マスキー法」に引っかからないチューンナップの開発も進める事となった。

困難に打ち勝つためには商品だけ磨くのではなく、経営陣も頭を切り替えなければならない。
堅くなった頭では時代の波に飲まれてしまうのは、1970年代も今も変わらないのは皮肉である。

実はポルシェ社は、この当時、まだ株式を公開していない「同族会社」だったのである。
またそれで、今までは充分に利益を上げていたのだが、ライニングが社長になってからはポルシェとVWの関係も以前ほど色濃くなくなってきたし、 「フォルクスワーゲン・ポルシェ販売会社」は自然消滅の道(これもライニングが手を引かせた。)をたどっていた。
そこでポルシェ社は心機一転、会社を株式会社として株式を店頭公開し、自社のみで生きてきく方針を固めたのだった。

最高責任者(社長)には、かのエルンスト・フールマン(!!)を置き、ポルシェ一族は表面的には経営には顔を出す事を止めた。
ポルシェ社は経営陣の頭の切り替えでなく、本当に社長であるフェリー・ポルシェ自ら『クビを切った』のである。
大変な英断だったと言えよう。

ポルシェ社は少しづつ、悪夢より覚めて行った。
彼等には立ち止まっている暇などなかったのだ。
そして、皆が「これからは良くなる・・・」そう思い始めていた矢先の事であった。

1973年、第4次中東戦争によるオイルショック勃発・・・

悪夢はまだ終わってはいなかったのである。


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