第1章 2話
VWとポルシェ

スポーツカーメーカーとして名高いポルシェ社だが、本来はむしろ「技術開発屋」と言った方が良いかもしれない。
1960年代までは間違いなく、自社の製品を売るよりも技術ロイヤリティの方が収入が多かった、と言えば、諸兄はおどろくであろうか?

先に述べた「VWタイプ1」は、言うまでもなくDr・フェルディナント・ポルシェの設計で、 当然の事だがこの車がVW社で製作されている間、ずっとロイヤリティは支払われてきたのだ。
またポルシェはVWとは密接な関係で、VWが新車種を開発するに当たって必ずポルシェが(仮に採用されなかったとしても)ケース・スタディを出してきた。
そして最初に「ポルシェ」の名を冠した車「ポルシェ356」ははっきり言い切ってしまえばタイプ1を高度にチューンした車であった。

しかしポルシェ社も、先述したNSUと同じく「技術はあるが、商業は下手」な会社の部類であった。
356も911も、スポーツカーとしては大変出来が良い(と言うよりも、当時で言えば世界最高の動力性能だった)製品だったが、 同クラスのライバル車に比べれば、大変高価なシロモノだった。
それでもまだ356の時代は、スポーツカー自体が裕福な『オモチャ』だったし、もっと大型だが性能のあまり変らない高額な車も数多くあった。
しかしポルシェが大変高価で、おいそれと普通の人に買えるような車で無いことはたしかだった。VWは常にそこに目を付けていた。

356時代に、VWは「カルマン・ギア」を発表した。
これはポルシェのように流麗なボディーを、タイプ1のシャシ・エンジンに乗っけただけのとても「スポーツカー」とは呼べない車だったが、 本来フラットトルクで回りの良いエンジンと、スイング・アスクル特有の食い付きの良い足回りが功を奏して (皮肉な事に、356では騒がれたスイング・アスクル特有のジャッキング現象は、非力なカルマンではさほど問題にならなかった)、 当時の同クラスの本格的スポーツカー(ヒーリー・スプライトやMGミジェットを指すと思われる)に全く引けを取らなかった。
何よりも、ポルシェにも似たエレガントなスタイルは、『プア・マンズ・ポルシェ』の地位を獲得したのである。

しかし911時代になると、とてもカルマンではタイプ1とポルシェのあいだを埋める事は出来なくなっていた。
そして今度はポルシェ社が、独自に安価なモデルを開発した。912と呼ばれるそれは、911のボディーに信頼のある356のフラット4エンジンを積んだ物で、 タイプ1と911の間を埋めるというより、カルマン・ギアと911の間を埋める『356の後継者』としての役割 (すでに911は356よりも1クラス上のランクとして考えられていた)を担っていた。
そのために今日ではあまり名前こそ出て来ないが、実は当時では911よりも多くの912が生産されたという。
ただし912は、911と同じ大変カネのかかったボディーを使用していた事で、思いのほかコストがかかった事による値上がりと、次に述べる計画により912の生産を1969年に中止する。

その計画というのは、『野心家』ロッソとの間(一説によれば、ノルトホフの存命中に話が始まったともいわれている)に交わされた「フォルクスワーゲン・ポルシェ販売会社」である。
当時のポルシェ社社長、フェリー・ポルシェは、エンジンを始め主要部品をVWと共用して、安価で性能の良いスポーツカーを新しく設立した会社と、 ポルシェ社、VW社の3社で販売し、販売台数を稼ごうという話に乗っていたのだった。
その為に開発されたのがポルシェ914である。

914は狙い通り、安価で、素晴らしいスポーツカーとして市場に受け入れられた。
これと911、そして先述したタイプ1の後継車の開発と、ポルシェ社の前途は揚々として見えた。
しかし、悪夢は急に訪れたのである。


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