既に、VWタイプ1(俗称ビートルと呼ばれる)は、世界最高の大衆車の名を欲しいままにし、タイプ1のバリエーションも数多く作られていた。
が、野心家のノルトホフはそれ以上、例えば、GMやフォードのような総合的に総てのクラスをカバー出来るメーカーにVWを成長させようとしたのだ。
そのため、タイプ1よりクラスを上げた中型車の販売をターゲットとしていた。
ただ、新しいマーケットに参入するには大きなリスクがある。
特にドイツでは、そのクラスにはアメリカの巨大資本の傘に守られた、ドイツ・フォードとオペルがあり、また名門BMWという強敵も控えていた。
タイプ1は確かに素晴らしい車だった。安くて性能が良く、壊れない。しかしそれだけだった。その車を所有する事で得られる満足感、プライドとは無縁の良く出来た『道具』にしか過ぎなかった。
ノルトホフはこううそぶいたという。
「タイプ1も、2も、あれは車ではない。掃除機や冷蔵庫と同じさ。」
最初はノルトホフも、自社で中型車を作成する事を考えていた、が、一般に染み着いたVWのイメージ・・・高品質な大衆車・・・というのは、
贅沢品とも取れる中型車にとって決してプラスにはならない事を学び取っていた。
そのため、既に存在しているメーカーをそのまま自社の傘下に入れ、他ブランドで売り出した方が市場受けが良いという結論に達した。
ダイムラー・ベンツがアウトウニオン社の株を手放した時が丁度リンクした。時代はノルトホフに味方した。
VW社はまずアウトウニオン社に、前輪駆動で居住性の良い小型サルーンを作らせた。
それは、アウトウニオン社の一端である、創業時の4メーカー(ホルヒ・DKW・ヴァンダラー・アウディ)の内、FF車の先駆者として名を上げた「アウディ」の名前が付けられた。
「アウディ」は、良心的で作りのよい事から、地味ながら確実に市場に浸透していった。
しかし、ノルトホフのラックは思いも寄らないことで終止符を迎える。1968年、病により強運どころか自らの人生に終わりを告げてしまった。
ノルトホフの後任は、彼の懐刀であり、同じく野心家のクルト・ロッソが引き継いだ。ロッソもやはり、中型車市場には強い興味を示していた。
彼はノルトホフの流れを忠実に受け継いで、1969年、NSUヴァンケル社をアウトウニオン社に合併させた。
NSUヴァンケル社は、諸兄も御存知の通り世界で最初にロータリー・エンジンを実用化したメーカーであり、技術面では傑出していた、 が、皮肉な事に(いつの時代でもそうだが)技術があるからといって、必ずしも商業面で成功するとは言えなかった。そこにロッソは目を付けたのである。
これでVW連合の中型車部門は万全となり、近々モデルチェンジされる屋台骨のタイプ1と、それの亜流の準備も着々と進んでいた。
当時のロッソの言葉にこのようなモノがある。
「遠くない未来に、『自動車メーカー』と言うのは『フォルクスワーゲン社』を指すことになるだろう。」
そして新しいタイプ1と、その亜流の開発は、世界最高のスポーツカーを制作する「ポルシェ社」が一手に引き受けていたのである。