第2章 3話

ゴーン氏がポルシェに乗っていて接触事故を起こしたことが報道されていたが、この当時の日産の開発陣も944ターボに魅せられ徹底的に乗りこんでいたのだ。
その結果はというと、まるで狙ったかのように、タイプMの車重・馬力・トルクはS2そっくり。
雑誌によるとテストデータも、最高速は約235キロぐらい、加速は0-400を15秒を少し切るぐらい、と瓜二つであった。
ところがタイプMは230万ちょい、S2は660万、値段は3倍近く違った。
GT-Rは944ターボを凌駕するスペックを最初から狙って作られていたが、値段は圧倒的に951より安かった。

944を標的にしたのはR32だけではなかった。
944は北米ではスタイルまでそっくりのRX-7の真っ向からの挑戦を受け、Z32のノンターボはS2にぶち当てられた。
Z32のターボ付きは951を仮想目標にしていたのは明らかだ。
これだけ真似され目標にされる車を名車と呼ばずしてなんと呼ぼう。
4万円に届かんとする日経平均、「日本の一人勝ち」状態の好景気を横目に944の生涯は1991年の最終生産年度を目前に終わろうとしていた。
バブルから湧き出るキャッシュをふんだんに開発に注ぎ込む日本メーカーが束になって、家内制マイスター手工業のポルシェに挑んだのだ。
諸葛孔明を多数抱えるポルシェの方針として「真似されにくい車=RR」を存続させた方が会社としての生き残りは確保できる、と考えても不思議ではない。
911はRRの技術が特殊であるのに加え、実用性に劣り、大量生産メーカーにとっては真似する気もおこらない車だ。
一方で944はパッケージングに優れ、スポーツ性を損なわないで実用性もある。
ポルシェが売れる車を狙って作った車は皮肉にもあまりに多くのフォロワーの出現を見ることになり、ポルシェ自体の首を締める結果になってしまったのだ。
もし944が92年にデビューしていたら今でも944は存続しているかもしれないと思うのは私だけではない筈だ。

2004年12月に発売されたプレステのソフト「GT4」に同封されてくるリファレンスガイドに、GT-Rの開発ドライバー加藤博義氏のインタビューがある。
1988年に初めてニュルブリンクリンクに渡り、R32GT-Rの操安性をテストしようとしたチームは当初たかをくくっていた。
「ポルシェ944(恐らく951)が8分30秒ぐらいで走っているらしいが、うちの車ならもっと出るだろう」ぐらいの気持ちだった。
ところが走ってみてチームはコテンパンに打ちのめされた(加藤氏の表現そのまま)のだった。
コースの4分の1も走ったところで油音オーバーでタービンブロー。
「操安性で世界一になる」筈の日産チームはニュルの厚い壁の前に必死になった。
結果としてR32のGT-Rは8分20秒、その後、R33では8分の壁を破り7分59秒を記録したとされる。
当時の広告にも大々的に謳われていた。
努力の甲斐あってR32・R33・R34GT-Rは国産最強伝説を勝ち得たが、その刺激剤になったのは実は944だったのだ。

終わり


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