手許にある2004年2月のある雑誌の表紙に躍るフレーズにこうある「R32・Z32・ロードスター、名車たちが生まれた黄金の年から15年。
1989年の夢よもう一度」。懐古主義的にも見える見出しだが、共感する人は多いだろう。
ある業界人は言う、「89年の熱気は二度と戻ってこない、その後の空白の10年・いや15年でコマーシャリズムを念頭に置かない開発はできなくなってしまった。」
1985年のプラザ合意に端を発したバブル経済により、日本の車メーカーは湯水のように開発資金を投じ、自らの理想を追い求め始めた。
日産はあまり経営の調子がいいとは言えなかったが、エンジニアの理想を具現化するために、有名な「90年に操縦性で世界ナンバーワン」を目指した901活動を真面目に推進していた。
業界全体では1988年にシーマが生まれ、1989年にはあのセルシオがデビューし、NSXが発表された。
セルシオはベンツを驚かせ、GTRは4WDを実用化し、その後のスポーツカーのテンプレートを作った。
NSXは万人の為のゴルフバックも積めるスーパーカーとして話題をさらった。
それ以外にも89年にデビューしたのは、CRX−SiR、レガシィ、プリメーラ、MR-2(2代目)、180SX、セリカ(ST-180)、と今でもファンが多い車ばかりだ。
R32は桜井真一郎ではなく、伊藤修令氏が陣頭指揮をとり86年春にそのコンセプトを掲げた。
901運動は開発がスタートした時からヨーロッパのスポーツカーを凌駕する走りを開発目標に打ちたて、走りを支えるサスペンション・エンジン・シート・操作系を高い水準に引き上げようとした。
目指す車が高性能であればある程、達成しなければならないレベルは高くなる。
伊藤主管は「乗ってくれる人が愉しい、喜んでくれる車」を主眼に据え、ライバルに負けてもいいと思われる点はあっさり諦める変わりに、
絶対に妥協しないと決めた点に関してはどんな制約をも跳ね返す意気込みでR32を煮詰めて行った。
従来の車作りは市場の競争原理や企業の都合にあまりに縛られすぎていたのに気づいたのだ。
この主義を当時の日産の社長の久米氏は支持・擁護した。
試作車ができるとニュルブルクリンクへ持ち込んだが、当初はボディ剛性・耐熱性の不足をさらけ出し、ヨーロッパの車の偉大さを改めて認識する結果となった。
なんとチームはR32をポールフレールやポルシェ959の開発ドライバーにも乗ってもらっていたのだ。
次に当時のR32開発スタッフの言葉を引用しよう。